日本女子大学 論文コンテストを初開催
2025.01.22
学生たちが「女子大学」の存在意義を考える

本学の全学部生を対象とした論文コンテストが初開催され、12月4日(水)に表彰式?発表会が目白キャンパスの青蘭館で行われました。本コンテストは篠原聡子(しのはらさとこ)学長が発案し「私にとっての女子大学、社会にとっての女子大学」をテーマとした論文を募集。28名からの応募があり、本学教員からなる選考委員会での選考を経て、最優秀論文賞1名、優秀論文賞2名を選出しました。なお、本コンテストに要する費用は、学部在学生保護者の会である日本女子大学泉会の「学生援助事業費」により支援をいただきました。
14学科から集まった
28通りの女子大学像
表彰式?発表会では冒頭に、選考委員長を務めた篠原学長から挨拶がありました。日ごろさまざまなメディアからの取材を受けるなかで「女子大学は今後どうなっていくのか」や「女子大学の存在価値は」といった質問を必ずされるという篠原学長。では、それらの質問に対して学生達はどのような考えを持つのかを聞いてみたい、というのが本コンテストのきっかけだったと話します。4,000字程度という応募条件を設定したため、集まらない心配もあったが、14の学科から計28名の応募があり嬉しく思ったそうです。「1つひとつの論文を読ませていただき、今回は賞に選ばれなかった論文にも納得させられるところが多かったです。本学の存在価値を再確認できるコンテストになりました」と挨拶を締めくくりました。

今回は以下の3名の論文が各賞に選出されました。なお、それぞれのタイトルから論文の全文をご覧いただけます。
論文は、2025年3月20日までの掲載となります。
<最優秀論文賞>
家政学部住居学科4年 風間美麗(かざまみれい)さん
論文タイトル
<優秀論文賞>
文学部史学科4年 長谷川玲(はせがわれい)さん
論文タイトル
<優秀論文賞>
人間社会学部文化学科4年 伊藤遥風(いとうはるか)さん
論文タイトル
賞状と副賞の授与後には、受賞者たちからのスピーチがありました。

表彰式の最後に本コンテストに支援をいただいた泉会の田中晴雄(たなかはるお)会長からも参加した学生たちにメッセージをいただきました。
「少子化や女子大学の存在意義を問われているなかで、みなさんがその問題に真正面から取り組み、自分の考えを論文として表したことに非常に大きな意義があるのではないでしょうか。
女子大学で培われたそれぞれの特性を生かして、5年、10年先にみなさんが社会で活躍している姿をさまざま場面でお見かけすることこそが、女子大の存在意義に直結すると思います。みなさんのご中国足彩网やこれからの活躍に期待しています」

受賞した3名の他にも「女子大学は社会にひらかれている」「次世代へ続く女子教育の在り方」「女子大学の特異性と価値とこれから」など、応募者から集まった28本の論文タイトルは多様で、1つとして同じものはありません。選考委員の先生方も「今後の女子大学を考えるうえで参考になる論文が集まり、多くのことを教えられた」と話していました。
本学は、今後も学生との対話等も交えながら、現代における女子大学の存在意義を考え、新しい価値を創造してまいります。

日本女子大学論文コンテスト概要
テーマ:「私にとっての女子大学、社会にとっての女子大学」
字数:4000字程度
募集期間:2024年7月1日(月)~10月18日(金)
応募資格:日本女子大学の学部学生(通学課程)
表彰:最優秀論文賞1名(副賞10万円)、優秀論文賞2名(副賞5万円)
参加賞:amazonギフトカード5,000円分
選考委員会:学長、副学長2名、学部長6名、委員長(学長)が推薦する教員3名
参照リンク
「女子大学はいかにして多様性と向き合うべきか」
家政学部 住居学科4年 風間美麗
現代社会において、「性」への価値観は大きな変容を遂げている。それは、性的なアイデンティティがその人の「体」のみに依存しなくなったことであろう。この世に生を受けた「生物」は、生まれながらにして二つの存在に分類される。それは雌雄の区別であり、私たち「人」も例外ではない。私たちは「男」と「女」という存在に分類される。そして、それらは「体」という形あるものによって私たちに明確に示される。私たちはその体によって自分の性を理解し、また他人の性をも把握する。この性の理解が私たちに性的な善悪を示唆するのであり、生きていくうえで最初に与えられる価値観であるといっても過言ではないだろう。
「体」の違いが「性」の違いであることは科学が証明している。それは視覚的な差異だけではなく、成長の過程や生殖における役割において明白である。肉体的な意味での「二つの性」の働きがなければ新たな「命」が誕生することはない。私たち人にとって、この「性」を持たずに生まれてくることは不可能であり、自分
の意志でそれを選択して生まれることも同様に不可能である。
これまでの社会において、生まれながらにして与えられた「生物学的な性差」と人間の営為における「文化的?社会的な性差」とは限りなく近いものとして扱われてきた。しかし、時代の変化と共にこれらの二つの「性差」はそれぞれが独立し、そこに新たに「自己認識」という要素が加わるようになった。つまり、自分が自分をどのような性として認識しているのかが、その人の性的なアイデンティティとして尊重されるようになった。そして、これらの「性」への価値観が多様化した現代社会は、「女子大学」という存在の意義を問うこととなったのである。
では、女子大学はいかにして多様性と向き合うべきなのだろうか。女子大学というものが創設された背景も含みながら、現代における女子大学の存在意義を考察する。
現時点での女子大学における「女子」の定義は生物学的なものである。つまり、身体的な特徴が「女性」である人がその環境で学ぶことを認められている。しかし、このような性的な制限が設けられたのは、決して学びの対象を狭める「ネガティブな手段」ではなく、学びの対象を広げる「ポジティブな動機」であった。かつて「学ぶ」という行為の主体が男性であった社会の中で、女性にも等しく教育の機会を与えることを目的として、女性が学ぶ場としての女子大学が創立された。つまり、根本的な部分では女子大学は性差を助長することそのものを目的としているわけではない。むしろ、社会に根付いていた性差を薄めるためのものとして存在していた。
しかし、現代における「女性」の解釈と本来の女子大学の「女子」の解釈は、徐々に乖離を見せるようになった。つまり、性の決定が形を持った視覚的な「体」ではなく、目に見えない内面的な「認識」へと移行したことによって、男性的な体を持つ人の入学を認めない女子大学というものが、多様性に反するものとして考えられるようになってきている。
では、女子大学は本当に時代の変化に反し多様性を否定する存在なのだろうか。女子大学の存在意義を考えるうえで、私は「多様性」という言葉とそれがもたらす社会形成への影響についてもう一度整理する必要があると考える。
「多様性」という言葉は、一見すると色々な生き方を認め合い、お互いの価値観を尊重するという「人」にとってあるべき姿を示す言葉のように思われる。何にも制限されず、自由に生きることを願う人々にとって、この言葉は自らの生き方を肯定するアイテムにもなる。
しかし、現代社会が求める特に性的な意味での「多様性」は、本当に私たち一人ひとりが望んでいる社会をつくるのだろうか。
私たちが生きている世界は、いくつかの秩序によって支配されている。細かく分類すると数えきれないが、私は代表的なものとして三つのものがあると考える。一つ目は「物理的な秩序」である。これは、特に私たちが生きている「地球」という空間において示されている。未来はいずれ現在となり、最終的には過去として消化されるという不可逆な「時間」という秩序、重力をはじめとした不変の方向性をもつ「力」という秩序、このような自然界の秩序の中で私たちは存在している。二つ目は「人為的な秩序」である。これは、与えられた自然界の時空間で「人々」の営みを治めるために人によってつくられるものであり「法律」や「ルール」といった社会的な秩序である。これらの秩序によって私たちは共通の正しさのもとで生きることが出来る。そして、最後に三つ目が「性的な秩序」である。生まれながらにして与えられたこの「性」によって、
寿命という時間的な制限のある私たちでも、新たな「人」を生み、その命を繋げていくことが出来る。
このように、私たち人が「存在」し、「正しく」生き、その存在を「繋げる」ことができるのは、私たちがこれらの「秩序」の中で生きているからである。そして、もしも現代社会が主張する性的多様性が、これらの秩序を壊すという意味合いで用いられるなら、そこには秩序の中で生きる「人の在り方」を大きく変える危険性があるのではないだろうか。
今世界では、LGBTQ+という言葉によって、様々な性自認が受け入れられ始めている。身体的な性と心の性の不一致、また恋愛対象となる性の不一致、またどちらの性でもないという性自認、もはや男と女という二つの性だけでは定義されない時代となった。では、このような本人の認識によってのみ性別が決定する社会は、本当に多くの人が望んでいる姿なのだろうか。
このような社会の実現は、これまで性に関する苦しみを抱えてきた人たちが生きやすくなるという面では私たちに自由を与える。しかし、それは同時に私たちのこれまでの安全を脅かす危険性があることも考えなければならない。主に私たちの性的な領域においての安全性である。
例えば、銭湯や共用トイレといった「性」に関わる公共的な空間において、もしも異性の体を持った人が突然現れたら、それを素直に受け入れる人はどれくらいいるのだろうか。現代における「性」が内面的な部分だけで証明されるなら、その行為は受け入れられるはずである。しかし、目の前にいる自分とは違う体を持った人を、その人が自分と同性であると認識しているからといって、受け入れられる人は少ないのではないだろうか。つまり、「社会」というふんわりとした大きな単位が掲げている多様性と、その社会を構成する一人ひとりの「個人」という単位で求めている多様性では、そこに大きなギャップがあると私は考える。「性的な多様性」が、「性的な無秩序」を意味するのなら、それは性的な秩序によって守られる安全な場所が脅かされるということであり、それを多くの人が望んでいる社会のあるべき姿だとは考えにくい。私たちは性的多様性を本当に社会の完璧な姿として求めているのか。私たちは、一見良いと思われる「社会」の風潮に対しても、ただ何となく肯定しておくのではなく、それが与える影響を自分の生活という「個人」の範囲にまで落とし込んで考える必要がある。
今の社会は主張の多様性が認められている。それは、すべての人が等しく価値あるものとして存在するために大切なことであり、「人」を狭い定義で決めつけることのない社会実現のために必要なことである。しかし、「主張」の多様性が認められるなら、その主張を「受けとる」側の多様性も同時に認められるべきではないだろうか。つまり、様々な「性」の自認を主張する人が存在するならば、そのような人たちをどのように理解するかという、「理解の多様性」も同時に存在するはずである。そして、「女子大学」という大学の在り方は、この「理解の多様性」を現代社会に問い続ける存在として意義を持っているのではないだろうか。
本学「日本女子大学」は、社会から突き付けられた多様性という主張に対して、いくつかの改革をもって応答している。2024 年度 4 月入学者よりトランスジェンダー学生の受験資格を認めるという決定をし、またそれに伴い、2023 年度 9 月には性別や年齢といったあらゆる「違い」によって利用を制限されない「オールジェンダートイレ」も設置されている。このオールジェンダートイレに関しては身体的な性差を問わないが、本学への受験資格については、あくまで生物学的に女性である人であり、その内面的な性自認を問わないという表明である。「女子大学」という存在である以上、男性の体を持つ人の受験を認めるというのは様々な課題がある。しかし、そのような身体的な性という「性の秩序」を保持したうえで、その内面における「性自認の多様性」を認めていこうとする姿勢を見せることは、女子大学の社会への応答として認められるべきだ
と私は考える。生まれながらにして与えられたもの、どちらで生まれてくるか選べなかったもの、この「体」というどんな科学の技術を以てしても完全に変えることはできないもの、時に私たちに残酷にその事実を示してくる「生物学的な性」によって受験資格が制限されるという事実は、ある視点から見ればとても暴力的なものにうつるかもしれない。しかし、性的に無秩序な教育の場と変えていくのではなく、これまで保たれてきた一定の秩序を認めながらも、そのなかでどのようにして「多様性」を見出していくのかを現代社会に示し続けていくことが女子大学の存在意義なのではないだろうか。社会が「主張の多様性」を女子大学に問いかけているように、女子大学は「理解の多様性」の在り方を社会に問い続けているのである。
「現代社会における女子校の存在意義に関する考察 - 10年の女子校生活を振り返って —」
文学部 史学科4年 長谷川玲
1. はじめに
昨今、SNS 上で男女別学である学校の存在意義について投稿されている様子をよく見かける。その中には女子大で学び社会へ進出した経験を持つ、かつてキャリアウーマンと呼ばれたキャリア志向の女性の手記をはじめ、少子化の中、我が子へいかに良い環境で学ばせるべきかなどといったものが散見される。また少子化による学生数の減少から別学の学校を共学化せざるを得ない状況を嘆く投稿も多い。
多様性が叫ばれる現代で、なぜ男女別学が未だ必要とされるのかどうか。私は中学校の頃から女子校へ通っており、今年で 10 年目となる。女子校へ実際に通ってみたという自分の半生を振り返りながら女子大?女子校の存在意義について考えたい。
なお本論の執筆において私の経験を取り入れたところ、大学だけでなく今まで通った中学?高等学校(*1)の経験も大いに影響していると実感した。そのため、本論において用いる女子校の定義を女子中学?女子高等学校?女子大学等の教育機関を総称するものとされたい。
2. 私にとっての女子校
本論を展開するにあたって、まずは私が実際に経験してきた女子校の存在意義や価値について考える。女子校の存在意義や価値などを考えると枚挙に暇がないのだが、それについて問われた時、私が特に伝えたい二つをピックアップして論じてみたいと思う。
2-1.自分らしさが肯定される場所
私が思う女子校の最大の存在価値に、自分の興味や好きという感情が肯定される場というものがある。これは学問に対しても、趣味に対しても言えることなのだが、今まで女子校で出会ってきた友人たちは皆、自分の「好き」を押し出す活力に満ち溢れているのだ。また、それを認め合い受け入れる環境というのが無条件に提供されている。言い換えれば、他人の価値観は他人の価値観であり必要以上に互いが過剰に干渉しあわないからこそ、ストレスフリーに過ごせているようにも感じられる(*2)。
これは女子校という機関が、「人」として自分らしさの形成に関わる貴重な時期を過ごす場であるからこそ守られるべき環境なのではないだろうか。実際私も、この 10 年で様々な価値観を持つ友人との出会いを通して互いに刺激し合ってきた。不用意に飾らない素の自分らしさが垣間見える時間は、日常生活の過ごしやすさだけでなく、就職活動などにも大いに役立ったと思うこともある。女子校で過ごした私は一体どのような人間なのだろうか、どのような人生を理想とし、どのように成長していきたいかをじっくりと見つめ、考えられる時間を大学生活で享受した。
2-2.女子校育ちのオーラ
次に社会における女子校コミュニティの醸成ができることがある。私は女子校育ちの学生には彼女たちにしかないオーラのようなものが存在すると思っている。これを感じるのは実は初対面の時からで、女子校で生活したことのある女性と会話すると自ずとそれが分かるのである。大学に入学してから授業を通して仲良くなった同輩や後輩はもちろん、アルバイト先で初対面にもかかわらず様々な話ができて面白い方だなと感じた先輩や上司が実は女子校出身だったということもあった。
この感覚は私たちに連帯感や共感性を生み、女子校育ち同士の結びつきが生まれ始める。それが次第に他の女性同士を巻き込み、助け合い精神に満ちたコミュニティを形成していくのではないだろうか。
現在、日本社会における女性のトップリーダーは依然として少ない(*3)。しかしその少なさから女性のトップリーダーたちは自然とネットワーキングが進むのだと、おおたとしまさ氏(*4)は著書の中で語っている(*5)。私は、きっとその繋がりあいに女子校育ち故に感じるシンパシーが少なからず影響しているのではないかと考えている。そしてこのような女性コミュニティの形成や発展の核たる存在としてまずは女子校出身の私たちが今後の社会に必要なのではないだろうか。
3. 社会にとっての女子校
次に、社会にとって女子校というものが現代でどのような存在意義や価値を持つのかについて考えていく。これに関しても少なからず私自身の実体験が含まれてくるが、主に大学経験した社会とつながる時間を通して考えたことについて触れながら論じていきたい。また、本論の執筆にあたって私の両親に実際娘を女子校へ通わせてみてどう感じたかについて話し合ってみた。
3-1.心身の安全を守る機関であるということ
まず社会的な女子大の存在価値として最も価値あることは、学生の身体的安全が高水準で守られていることにあるだろう。これは単に機関の充実といったことにとどまらず、自分が被害者にならないために、そして加害者にならないためにどのような意識が必要なのかを考えさせられる教育が行き届いているということだ。また大学生活において何らかの被害にあったり、自分の心身のことで不安があったりした時に親身になって相談に乗ってくれる機関がすぐそばにあるというのは、学生のみならず保護者からしても安心要素となるだろう。一定水準の心身の安全が保障されているからこそ、自身の熱中したいことに全力を注げるのである。またそのような環境下に身を置くことで、真の多様性とは何かを考えるきっかけが与えられるし、それを受け入れるために私たちは何をすべきか考えられるのではないだろうか。
3-2.女子大ブランドがもたらすチャンス
私が学生生活を送る中で、先輩たちが創り上げた日本女子のイメージによって私たちが豊かな経験をさせて貰えていると感じることも多々あった。実際に私が社会の中の人々と関わり合う中で、日本女子に通う学生のイメージといえば「活力や積極性がある」という意見を頂くことが多かった。この印象から、社会連携活動(*6)や博物館実習など学外での取り組みで、周囲の方から温かいサポートをいただいたように感じる。これは単に私たちの学びに対する熱意だけではなく、先輩方が歴史の中で積み上げ磨き上げていった日本女子のブランド力に起因するものではないだろうか。そしてその経験を受けて、私たちも先輩方に恥じない学びや成果で恩返ししたいと思わせてくれた。
こうした大学での活動から得た社会との繋がりは私に大いなる自信と勇気をもたらし、今後の人生においても決して褪せることのない私らしさとしてあり続ける。すると今度は私がそれを還元する側になるのだという意識を芽生えさせ、未来への希望を抱くきっかけとなり始めるだろう。
3-3.多様化する女性の生き方のロールモデルとなる
最後に女子大は、これからを生きる女性たちへのロールモデル作りに寄与していると考える。女子大出身の学生は、「人」として社会で生きる力に長けており、先述した通り自分らしく生きる活力に満ち溢れている。
現在数多く目にする女子校出身者の手記というのは、所謂「バリキャリ」と呼ばれるキャリア志向の女性によるものが多い印象である。キャリアとの向き合い方は女子校の教育システムの中でも特に強く意識されるテーマだろう。確かに昔は女性が社会進出を果たすということは、キャリア一筋でないと成し遂げられないことを意味していた。しかし私は現代において「女子大に行く=キャリア志向の人間を育てる」ではないと考える。
なぜなら社会が多様化するように、女性の生き方も多様化し始めているからだ。実際自分自身が就職活動を終えてみると、友人たちは全く異なる価値観で就職していることに実に感化された。その中には所謂「バリキャリ」を目指す子もいたし、キャリアとプライベートの両立を掲げる子や妊娠?子育てを念頭に置いたライフプランを描く子もいた。これからの社会を支える女性たちがその全てにアクセスできるほど、現時点で働く女性のロールモデル数があるとは言えないのではないだろうか。これをより充実させるために(*7)、「人」として「自分らしく」生きる道を教育された私たちの存在意義があるのだと考える。
4. 結論
私にとって、そして社会にとって女子校という教育機関がどのように価値を発揮しているか私なりに考察した。女子校は自分自身が、そして自分の好きという感情が肯定される場所である。こうした自由度の高い環境で育った学生同士が、社会で出会うと大きな一体感を持つのではないだろうか。そのように醸成されたコミュニティはこれからの日本社会で多くの女性たちを巻き込み、社会をより良いものへと進化させるきっかけとなるだろう。女子校出身の私たちには、その核となる可能性が秘められている。
また社会的に見ても女子校という環境は学生の安全が高水準で保障されており、学生だけでなく保護者も安心できる要素となる。こうした心身の安全があることによって、自分の中国足彩网に熱中することができ、勉学以外にも学生時代にしかできない様々な経験ができる。
ただそれは今大学に通う私たちのやる気や努力だけでなく、今までの先輩が築き上げた歴史や日本女子大学というブランド力が作用していることも確かである。それを享受し成長したからこそ、今度は私たちがそれを還元する番だという意識が芽生え、未来の後輩たちに更に良い経験をさせてあげたいと思うきっかけになる。先述したような横のつながりだけでなく、女子校で生まれた助け合い精神は縦のつながりもより強固にしてくれる。
こうして現在?過去?未来の三つの時間軸を捉えながら社会に貢献する生き方は、これからますます多様化する女性たちの生き方のロールモデルとして世の中にあり続けることができるだろう。女子大?女子校にはそこでこそ生まれる「人」としての多様性が存在しているのではないだろうか。
5. おわりに
自分の経験を主体として筆を執った本論であったが、書き終えてみると女子校暮らしで得た経験値によってこれからの人生がより良いものになるのではないかと更に考えさせられた。またその経験値がどれほど私の学生生活を豊かにしてくれたのかを実感したため、その環境を提供してくれた両親をはじめ先生方、友人たちに多大なる感謝を贈りたい。そして卒業後、就職してからは日本を牽引する女性の一員となれるよう研鑽に励み「人」として益々成長したい。
現代社会では様々なトレンドが目まぐるしく変化するように、きっとあるべき女性像もこれからどんどん変化していくのだろう。日本女子大学という学び舎が現代社会を生きる女子学生にとって、いつでも社会に生きる「人」として先頭を歩んでいける環境であるようにと祈りながら本論を終えたい。
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*1 筆者は 2018 年江戸川女子中学校卒業、2021 年に江戸川女子高等学校を卒業している。
*2 2002 年に実施されたお茶の水大学の意識調査によると総じて満足度の高い中、女子校は生徒から 90.4%の満足度の高さを得ている。そして学年を追うごとに満足度が高まっていくといった結果も報告されている。 ジェンダー中国足彩网委員会生徒意識調査班「高校生のジェンダーに関する意識調査(第 2 回)」(『中国足彩网紀要』巻 47、189-200 頁、2001)
*3 内閣府 男女共同参画局「男女共同参画白書 令和 4 年版」より「1-18 図 諸外国の就業者及び管理的職業従事者に占める女性の割合」によると、女性管理者の割合は諸外国でおおむね 30%以上となっている中、日本では 13.2%となっており低い水準となっている。
*4 育児?教育ジャーナリスト。子育て、教育、受験、進学、家族のパートナーシップなどについて、取材?執筆?講演活動を行う。
*5 おおたとしまさ「21 世紀の『女の子』の親たちへ 女子校の先生たちからのアドバイス」、祥伝社、2020
*6 筆者は 2023 年度 8 月から翌 3 月まで本校の社会連携活動支援助成をいただき、千葉県鴨川市のお寺で経典整理のワークショップを実施した。
*7 おおた氏前掲書にて、品川女学院中東部?高等部の現理事長である漆紫穂子氏は、従来の日本の大企業が行ってきた社員育成とは異なる方法で女性のチャンスを広げ、キャリアアップすることによって女性の新たな「成功モデル」が出てくるのだと述べる。このような女性が活躍する企業は今後自然と伸びてきて、日本の企業における活躍の道のようなものも複線化してくるはずだという。
「二極分化された現代社会から自分を解放する空間としての女子大学」
人間社会学部 文化学科4年 伊藤遥風
1. はじめに
私は女子大学とは、二極分化された現代社会から自分を解放する空間の一つであると考える。私たちが生きている現代社会において、男女というのは一番大きい二極分化された概念である。もちろんどちらにも属さないという人も一定数いて、その人たちが声をあげている現状もある。しかし、一度二極分化してしまった概念が再び一つになることや他の概念に成り代わるということは非常に難しいものである。そのため現代社会では LGBT-Q という言葉と、男女の二極分化された概念が共存している。この混沌とした現代社会で、女子大学というのはどのような立ち位置であるべきなのか。ある人は教育機関に男女という境目を作ることを差別とも捉えるし、女子大学が社会から遠く守られた花園のような間違った偏見を持っていることもある。しかし私は男女平等、性差に囚われない社会へと向かっている現代だからこそ、女子大学での学びや価値観が必要なのではないかと考える。
2. 女子大学を取り巻く日本社会と私
現在、女子大学というのは危機的状態に立たされている。本来、女子大学が生まれた目的が男女平等の教育の実現のためだったのにも関わらず、現在は共学の大学で男女平等な教育が実現してしまっているからだ。私自身も男女平等の高等教育が実現している今、わざわざ女子大学で学ぶ意義はどこにあるのだろうかと疑問に思うことは、これが初めてではなかった。女子大のメリットをインターネットで検索すると、「就職率の高さ」、「異性の目が気にならない」、「リーダーシップを養える」などが出てくる。正直なところ、就職はサポートの手厚さなどはあったとしても就職率は他の共学大学と比べて大きく差があるかと言われればそうではない。異性の目に関しても共学大学でも気にしない人は気にしないし、女子大学でも恋愛をして異性の目を気にする人は多い。リーダーシップについては立候補しやすい空気はあるが、結局どんな学校にいても自分が動かない限りはチャンスが巡ってくるものでもないので、強みとしてはあまり強い印象を受けない。しかしそれとは反面に、実際にこれらのメリットに惹かれて女子大学へやってくる学生も少なくない。そのため、現在の女子大学には「就職を第一に、異性を気にせず楽に、優しい環境にいたい」という考えを持つ人が多くなっている印象がある。実際、私も三年ほど日本女子大学に通学し、同じ学生たちと交流している中で何かを成し遂げたい、という強い思いを持つ学生ほど、今の学校生活に不満を持っている人が多かった。共学大学の競争なしに穏やかに就職活動したいという人、真面目に単位を取って他は思いっきり遊びやバイトに時間を使いたいという人にとっては、安定した伝統と歴史に守られたこの女子大学は住みやすい環境である。しかし私はずっとそんな目的を失ったままの女子大学でいいのか、という疑問を抱いていた。
少数ではあるが、私の他にも何かを成し遂げてみたいという学生がいた。大学で今の専攻を学ぶ中で本格的に学びたいと思うようになって大学院を目指す人、留学に行って新しく挑戦をしてみようという人も見てきた。その人たちは寧ろ変わろうとしない女子大学そのもの、そして学生に対して深い疑念を持っていた。よく言えば伝統と歴史に守られた学校であるが、その先に何があるのだろうか。私自身も留学する際に学芸員資格課程を履修しながら留学する制度が整っておらず、片方を諦めざるを得なかっ
たという経験がある。前例がないから、という一言で自分の可能性を狭められたことに対してしばらく納得することができなかった。とはいえ制度や学校の雰囲気に対して他に声を上げようとする学生もいなかった。
それから私は学部四年になり、韓国の誠信女子大学で交換留学をしながら他の女子大学に通う日本人留学生、現地の韓国人女子大生と関わる中で女子大学の強みというものを本質的に理解するようになった。まず留学先では他の女子大学から来ている日本人留学生も、韓国の学生も勉強に熱心な人が多い。学校の周りに自習室やカフェが多く、そこで勉強に打ち込む学生の姿も頻繁に見かける。試験期間になると図書館の予約制の自習室が夜中の十二時まで満室になるほどだ。それから留学生のほとんどは韓国語の語学力が高く、留学を始める前から努力している人が多い。そして勉強に対しての目的が明確である。将来は海外で活躍したい。韓国という好きな国をより深く理解したい。専門の勉強が楽しい、という話で盛り上がることも多い。このような真面目で勉強に対して前向きな学生が多いという環境は自分にとって非常に刺激になった。また韓国では日本と違い、卒業してすぐに就職することが少ない。休学したり、卒業後に資格を取ったり、大学院に進学したり、アルバイトをしつつ他のことに挑戦するという選択肢もかなり一般的である。そのため卒業後の進路についても学部生の間に過度に考える必要がなく、勉学にだけ打ち込んでいる空気がある。私も実際に現地の友人と話している中で進路について悩んでいる人が少ないと気づいた。就職の難易度は韓国の方が高いはずなのに、今はまだ学生だから勉強をするだけで十分だと考えている学生が多く、新しい価値観に驚いた。私は誠信女子大学に来て、この学生主体で学びに行っている雰囲気に感銘を受けた。日本の大学にいたときの目先の不安や、窮屈な学校生活から解放されたように感じたからだ。やりたいことや間違っていることを声に出すことが怖いと思わない雰囲気、本来の学生として学びたいことを追求できる環境は日本に足りていないものであるとはっきり実感した。
3. 自分を解放する空間
私は日韓の女子大学に通ってみて、女子大学は「自分らしさ」を再確認する場所であるのではないかと考えるようになった。女性だけの世界で生活することで人間として自分がどうありたいかということを、社会の中の女性という立ち位置以前に社会の中の一人として自分を見つめることができるのではないか。私は社会というのを一つの円の中に男性と女性という二つの円があり、その部分が重なっていたり、中に含まれなかったりする人たちも存在する構造であると考える。女子大学という空間で女性だけで生活することによって、大きな社会の円の中での自分の立ち位置を気にすることなく、自分らしさを追求することに集中できるのではないだろうか。学校社会自体が女性だけの構造であるからこそ、卒業後に大きな社会に出た時も同じように自分らしさを大事にできると考える。男性、女性という大きな隔たりを普段から考えずに生活できることは、「二極分化された社会で二極分化しない」という考えを与えるのではないか。人間に対して性別という一種の色眼鏡をかけず、男性であっても、女性であっても同じように捉えることができる視点を養える。例えば重いものを私の代わりに男性が持ってくれたとしたら、男性だから率先してやってくれるのでもなく、女性の私ができないからやってもらうのでもない。ただその男性が私よりも重いものを持つ能力が高く適していたから、やってくれたと感じ、考えられる、というような視点だ。人間は様々な場面で何かの集団や、傾向を見出したがるが、それは一種の性質に過ぎない。その側面だけしか見えていないと男だから、女だからと偏見や批判の対象となってしまう。そしてそれらに属していなければ自分の価値を測るものがないと焦り、阻害された気持ちで不安になる。しかし概念というのはその人だから、自分だからという前提を持ち、アイデンティティの一部として性別や他の分類を理解するべきである。それが本当の男女平等であり、私たちが探している自由でひらけた社会なのではないか。
つまり自分らしさを女子大学で見つけることで、男女平等の社会について他の視点で考え、存在している他の概念や偏見についても色眼鏡を外して考えることができる。自分を恐れずに解放し、他人に対しても多角的な視点を養えることが女子大学の最大のメリットではないかと考える。
しかし一つだけ懸念点がある。そもそも現在の日本社会において、自分を解放するというのは非常に難しいことである。日本の国民性もあるが、経済成長の停滞、高齢化社会の加速など日本の中だけで将来の不安となりうるものが多く、人々の奥深くに澱んでいる。私たち若者は今後もらえるかもわからない年金を払うことや、世界の経済成長においていかれること、物価の上昇などの不安を既に抱えている。また大学に通っている人の中には奨学金の返済を不安に感じている人も少なくない。実際に奨学金を借
りても学費が足りず、大学を通うことが難しくなった知り合いを見て、日本の若者において深刻な問題であると実感したのも最近の出来事である。このような日本社会において、学問や自分らしさを追求するというのは少し難しいのではないだろうか。それ以前に考えるべき不安や現実の問題が多く、何かに挑戦する機会さえ与えられない。就職活動のためのガクチカ作り、会社に気に入られるためのキャリア科目に何の意味があるのだろうか。本来の学生が力を入れて活動したかったことは何なのか、社会の一人一人が考えなくてはならない。社会問題を解決しなければ、女子大学のあり方や学生も変わることができないのではないか。
4. 結論
現在の女子大学はいわば「就職活動専門学校」のようになっている。四年制大学を卒業するという形式だけに囚われて、本来の学生生活の目的を失っている。しかしそれは女子大学が悪いのでもなく、学生が悪いのでもない。根本を辿れば現在の日本社会の雰囲気と構造自体に問題があるのである。この不安が絶えない日本社会の中で、私たちがどう生きていくべきか。私は海外の女子大学での経験をもとに、もっと将来の可能性と本来の自分らしさ、人間らしさをこの国に与えていきたいと強く感じている。女子大学に進学することで自分らしさや生きやすい視点を養い、日本社会の中でも不安に呑まれない強くて豊かな人間を輩出していくことが、女子大学のこれからの姿であり、女子大学から日本社会を変えていける一歩につながるのではないだろうか。